年末年始の休暇を利用し、ボツワナを訪れた。目的地はマカディカディ塩湖。南部アフリカに駐在している立場ではあるが、これほどまでに「何もない」場所に身を置いたのは久しぶりだった。
地平線まで続く大地。人工物はほとんど視界に入らず、目に入るのは空と地面、そしてゆっくりと動く光と影だけだ。ここでは、何かを「見る」というより、時間の流れそのものを感じているという感覚に近い。
この極端なミニマリズムこそが、マカディカディの最大の魅力なのだと思う。
ミーアキャットと、人が主役にならない関係性
そもそも今回マカディカディを訪れたきっかけは、「人慣れしたミーアキャットと一緒に写真を撮ってみたい」という、妻の希望だった。事前に目にしていた写真からは、どこか「観光用に慣らされた存在」という印象も正直あった。だが、実際に現地を訪れ、話を聞いて、その認識は大きく覆された。彼らはここでは「コロニー」と呼ばれているが、“人間による干渉は極めてミニマム”基本的には「何もしない」が原則だという。最初の頃は、人が姿を見せると「数百メートル先から警戒して一斉に逃げる」そうだ。それを追いかけることは決してしない。ただ、同じ場所に、同じ人間が、危害を加えず、餌付けもせず、ただ「そこにいる」ことを半年ほど続けていくと、ミーアキャットたちの反応が少しずつ変わっていくのだという。やがて彼らは、『人間は危害を加えない、特に気にする必要のない存在』として認識するようになる。そうなると、人が近くに立っていても逃げなくなる。こちらが彼らの生活圏に「入った」のではなく、「彼らがこちらを無視するようになった」──その表現の方が実感に近い。
可愛さの裏側にある、自然の厳しさ
もっとも、そこには決して「演出された安全」はない。滞在中、「実は直前に、群れの一部が蛇にやられて五匹いなくなった」と、驚くほど淡々とした口調で教えてくれた。人が近くにいようが、自然の厳しさは一切変わらない。愛らしい姿の裏で、生存は常にぎりぎりで、昨日までいた個体が、今日はもういないことも珍しくない。『守らない。管理しない。介入しない。』それでも結果として、人と動物が同じ空間を共有できている。マカディカディで感じた「あるがままの自然」とは、こうした姿勢そのものなのだと思う。
「砂漠」のイメージを裏切る風景 ― カラハリのもう一つの顔
カラハリ砂漠と聞くと、私自身も、砂だらけの乾いた荒野を想像していた。確かに乾季にはそのイメージは間違っていない。だが、今回訪れたマカディカディ周辺は、まったく違っていた。目の前に広がっていたのは、一面の草原。サバンナと言ってよい風景だった。聞けばこの地域は、「雨季と乾季で、裏と表が完全に入れ替わる」のだという。
なぜ草原になるのか ― 地形と水の記憶
その理由は、地表の下にある。マカディカディ塩湖一帯の地下には、水を通しにくい岩盤(カリクリート層)が広く分布しており、雨季に降った水が地中深くへ逃げず、地表近くにとどまる。
その結果、
• 雨季:湿地や草原が広がる
• 乾季:水が引き、再び乾いた大地に戻る
という、劇的な景観の変化が起きる。
さらに興味深いのは、この地形が**太古の巨大な湖と河川の名残**であることだ。現在のマカディカディ塩湖は、かつて存在した「マカディカディ古湖(Paleo-Lake Makgadikgadi)」の一部とされている。この古湖には、オカバンゴ川、ザンベジ川、クアンド川(現在のチョベ川水系)といった大河が流れ込んでいたと考えられている。現在でも、オカバンゴ・デルタから流れ出た水はボテティ川を通じて、雨量の多い年にはマカディカディ方面まで達する。目の前に広がる草原は、「かつて川の底だった土地が、季節によって姿を変えている」その延長線上にある風景なのだ。
ジュンクワジ族との短い時間
今回の滞在では、かつて日本でも「ブッシュマン」として知られたサン族の一部、ジュンクワジ族との交流プログラムにも参加した。火おこしなどの実演は行われるものの、いわゆる「ショー」という雰囲気はほとんどなく、生活の延長を、淡々と共有してもらうような時間だった。こちらが構えすぎなければ、向こうも構えない。必要以上に踏み込まず、聞けば答えてくれる。その距離感が、自然だった。
他地域での経験を思い出しながら
これまでに、ケニアやタンザニアでマサイ族の文化に触れたこともある。マサイ族は、その誇りや文化的存在感から、観光の場でも非常に印象に残りやすい人々だ。一方で、マカディカディでのジュンクワジ族との時間は、より静かで、説明の少ないものだった。どちらが良いという話ではなく、「場所や文脈によって、文化との向き合い方が異なる」その違いを感じただけだ。
セレンゲッティやクルーガーとは異なる自然のあり方
サファリと聞くと、セレンゲッティやクルーガーを思い浮かべる方も多いだろう。いずれも完成度の高い「王道」のサファリであることは間違いない。一方、マカディカディで感じたのは、「見せるために整えられていない自然」だった。動物がいなければ、ただ風景があるだけ。だが、その「何も起きない時間」こそが、強く記憶に残る。
ヨハネスブルグからのアクセス ― 不便さが生む価値
南部アフリカの玄関口、ヨハネスブルグからのアクセスは、決して容易ではない。一般的には、ヨハネスブルグからマウンまで定期便で移動し、そこから宿泊施設が手配する小型チャーター機で、各ロッジ専用のエアストリップへ向かう。移動時間も、乗り継ぎも、それなりにかかる。決して「気軽な観光地」ではない。だが、このアクセスの悪さこそが、結果的にこの場所の価値を高めているのだと思う。誰もが簡単に来られない。大量の観光客が押し寄せない。だからこそ、自然も、人との距離感も、壊れずに保たれている。
安心して旅ができる国としてのボツワナ
今回の旅を通じて強く感じたのは、旅先で出会う“ボツワナ人の穏やかさ”だった。
過度にフレンドリーでもなく、警戒心が強すぎるわけでもない。落ち着いた距離感と、自然な親切さがある。結果として、終始、安心して旅を楽しむことができた。
次は乾季のオカバンゴ・デルタへ
次に訪れてみたい場所は、オカバンゴ・デルタだ。乾季に水が広がる世界最大級の内陸デルタ。モコロ(丸木舟)で静かに水路を進む体験は、また違った「あるがままのアフリカ」を見せてくれるはずだ。
おわりに ― 抑制が価値を生むという選択
南部アフリカで仕事をしていると、成長や開発が前提として語られることが多い。だがマカディカディで体験したのは、「抑制や節度が、結果として価値を生んでいる例」だった。
自然に手を入れすぎない。人が主役になりすぎない。
その姿勢こそが、この場所を特別なものにしているのだと思う。