商船三井南アフリカ社
2026年1月21日

ボツワナ・マカディカディ塩湖で感じた「あるがままのアフリカ」

年末年始の休暇を利用し、ボツワナを訪れた。目的地はマカディカディ塩湖。南部アフリカに駐在している立場ではあるが、これほどまでに「何もない」場所に身を置いたのは久しぶりだった。

地平線まで続く大地。人工物はほとんど視界に入らず、目に入るのは空と地面、そしてゆっくりと動く光と影だけだ。ここでは、何かを「見る」というより、時間の流れそのものを感じているという感覚に近い。

この極端なミニマリズムこそが、マカディカディの最大の魅力なのだと思う。

 地平線に沈む夕陽と広い空が広がるマカディカディ塩湖。
夕陽:地平線まで続くマカディカディの夕暮れ
ミーアキャットと、人が主役にならない関係性

そもそも今回マカディカディを訪れたきっかけは、「人慣れしたミーアキャットと一緒に写真を撮ってみたい」という、妻の希望だった。事前に目にしていた写真からは、どこか「観光用に慣らされた存在」という印象も正直あった。だが、実際に現地を訪れ、話を聞いて、その認識は大きく覆された。彼らはここでは「コロニー」と呼ばれているが、“人間による干渉は極めてミニマム”基本的には「何もしない」が原則だという。最初の頃は、人が姿を見せると「数百メートル先から警戒して一斉に逃げる」そうだ。それを追いかけることは決してしない。ただ、同じ場所に、同じ人間が、危害を加えず、餌付けもせず、ただ「そこにいる」ことを半年ほど続けていくと、ミーアキャットたちの反応が少しずつ変わっていくのだという。やがて彼らは、『人間は危害を加えない、特に気にする必要のない存在』として認識するようになる。そうなると、人が近くに立っていても逃げなくなる。こちらが彼らの生活圏に「入った」のではなく、「彼らがこちらを無視するようになった」──その表現の方が実感に近い。

草原で距離を保ちながら周囲を見張る複数のミーアキャット。
ミーアキャット:人が主役にならない距離感
 草原の中で直立してこちらを見つめるミーアキャット。
ミーアキャット:可愛さの裏にある厳しい現実
可愛さの裏側にある、自然の厳しさ

もっとも、そこには決して「演出された安全」はない。滞在中、「実は直前に、群れの一部が蛇にやられて五匹いなくなった」と、驚くほど淡々とした口調で教えてくれた。人が近くにいようが、自然の厳しさは一切変わらない。愛らしい姿の裏で、生存は常にぎりぎりで、昨日までいた個体が、今日はもういないことも珍しくない。『守らない。管理しない。介入しない。』それでも結果として、人と動物が同じ空間を共有できている。マカディカディで感じた「あるがままの自然」とは、こうした姿勢そのものなのだと思う。

「砂漠」のイメージを裏切る風景 ― カラハリのもう一つの顔

カラハリ砂漠と聞くと、私自身も、砂だらけの乾いた荒野を想像していた。確かに乾季にはそのイメージは間違っていない。だが、今回訪れたマカディカディ周辺は、まったく違っていた。目の前に広がっていたのは、一面の草原。サバンナと言ってよい風景だった。聞けばこの地域は、「雨季と乾季で、裏と表が完全に入れ替わる」のだという。

なぜ草原になるのか ― 地形と水の記憶

その理由は、地表の下にある。マカディカディ塩湖一帯の地下には、水を通しにくい岩盤(カリクリート層)が広く分布しており、雨季に降った水が地中深くへ逃げず、地表近くにとどまる。

その結果、
• 雨季:湿地や草原が広がる
• 乾季:水が引き、再び乾いた大地に戻る
という、劇的な景観の変化が起きる。

さらに興味深いのは、この地形が**太古の巨大な湖と河川の名残**であることだ。現在のマカディカディ塩湖は、かつて存在した「マカディカディ古湖(Paleo-Lake Makgadikgadi)」の一部とされている。この古湖には、オカバンゴ川、ザンベジ川、クアンド川(現在のチョベ川水系)といった大河が流れ込んでいたと考えられている。現在でも、オカバンゴ・デルタから流れ出た水はボテティ川を通じて、雨量の多い年にはマカディカディ方面まで達する。目の前に広がる草原は、「かつて川の底だった土地が、季節によって姿を変えている」その延長線上にある風景なのだ。

ジュンクワジ族との短い時間

今回の滞在では、かつて日本でも「ブッシュマン」として知られたサン族の一部、ジュンクワジ族との交流プログラムにも参加した。火おこしなどの実演は行われるものの、いわゆる「ショー」という雰囲気はほとんどなく、生活の延長を、淡々と共有してもらうような時間だった。こちらが構えすぎなければ、向こうも構えない。必要以上に踏み込まず、聞けば答えてくれる。その距離感が、自然だった。

木陰で集まり、火おこしの実演を行うジュンクワジ族(サン族)の人々。
火おこし実演:ジュンクワジ族との交流プログラム
他地域での経験を思い出しながら

これまでに、ケニアやタンザニアでマサイ族の文化に触れたこともある。マサイ族は、その誇りや文化的存在感から、観光の場でも非常に印象に残りやすい人々だ。一方で、マカディカディでのジュンクワジ族との時間は、より静かで、説明の少ないものだった。どちらが良いという話ではなく、「場所や文脈によって、文化との向き合い方が異なる」その違いを感じただけだ。

小型機の窓から見下ろす、果てしなく広がる緑の大地。
チャーター機から:雨季で一面緑の大地
セレンゲッティやクルーガーとは異なる自然のあり方

サファリと聞くと、セレンゲッティやクルーガーを思い浮かべる方も多いだろう。いずれも完成度の高い「王道」のサファリであることは間違いない。一方、マカディカディで感じたのは、「見せるために整えられていない自然」だった。動物がいなければ、ただ風景があるだけ。だが、その「何も起きない時間」こそが、強く記憶に残る。

ヨハネスブルグからのアクセス ― 不便さが生む価値

南部アフリカの玄関口、ヨハネスブルグからのアクセスは、決して容易ではない。一般的には、ヨハネスブルグからマウンまで定期便で移動し、そこから宿泊施設が手配する小型チャーター機で、各ロッジ専用のエアストリップへ向かう。移動時間も、乗り継ぎも、それなりにかかる。決して「気軽な観光地」ではない。だが、このアクセスの悪さこそが、結果的にこの場所の価値を高めているのだと思う。誰もが簡単に来られない。大量の観光客が押し寄せない。だからこそ、自然も、人との距離感も、壊れずに保たれている。

安心して旅ができる国としてのボツワナ

今回の旅を通じて強く感じたのは、旅先で出会う“ボツワナ人の穏やかさ”だった。

過度にフレンドリーでもなく、警戒心が強すぎるわけでもない。落ち着いた距離感と、自然な親切さがある。結果として、終始、安心して旅を楽しむことができた。

次は乾季のオカバンゴ・デルタへ

次に訪れてみたい場所は、オカバンゴ・デルタだ。乾季に水が広がる世界最大級の内陸デルタ。モコロ(丸木舟)で静かに水路を進む体験は、また違った「あるがままのアフリカ」を見せてくれるはずだ。

おわりに ― 抑制が価値を生むという選択

南部アフリカで仕事をしていると、成長や開発が前提として語られることが多い。だがマカディカディで体験したのは、「抑制や節度が、結果として価値を生んでいる例」だった。

自然に手を入れすぎない。人が主役になりすぎない。

その姿勢こそが、この場所を特別なものにしているのだと思う。


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